蓮徳寺の歴史と環境

 

 

参考資料

(1) 『内灘町史』昭和57年、内灘町発行、北西弘編。

(2) 『内灘郷土史』昭和38年、内灘町役場発行、中山又次郎著。

(3) 『蓮如さん−門徒が語る蓮如伝承集成』1988年、橋本確文堂企画出版室発行、加能民俗の会編著 

(4) 『島崎観光開発株式会社30周年史』昭和60年、島崎観光開発株式会社発行

(5) 『本願寺』昭和41年、至文堂発行日本歴史新書、井上鋭夫著。

 

 

仏教伝来

 

仏教が日本に伝来したのは、欽明天皇の戊午(五三八年)、百済(くだら)の聖明王が金銅仏や経論を献じた時といわれている。しかし実際には、もっと以前から、大陸や半島から渡来した人々を中心に、仏教はかなり信仰されていたとみられている。蘇我氏は渡来して来た人々を支配していて、接触が多かったゆえ、仏教への関心や知識が高かった。後に彼は神祇崇拝をとる物部・中臣氏と争って勝ち、天皇にもまさる権力を得た。そして仏教は国教としての地位を得てゆく。蘇我氏は日本で最初の本格的な寺院・飛鳥寺を建立した。

 

 

 

荘園の発展

 

十世紀以降になると本格的荘園の時代に入り、実質的に荘園の経営にあたったその土地の領主たちは、他からの侵略を防ぐため、私的に武力を保持し武力団を形成した。加賀で最も有力な武力団は、林氏で、後に加賀の守護となった富樫氏はその分流である。しかし中世初期の粟ヶ崎は倉月荘に含まれていて、金沢市の近岡に館を構えた林一門(近岡九郎利明)に属した時期もあったとみられる。内灘町大根布から宇ノ気町大崎にかけては津幡の土豪である井家氏が掌握していたとみられる。

 

 

 

木曾義仲

 

無数に出現した武士団のうち、源氏と平氏が政界をも動かすような力を持つようになる。十一世紀には、前九年・後三年の両役を鎮圧して源氏が力を伸ばす。しかし十二世紀には、保元・平治の乱で勝った平清盛によって、武士による最初の政権が誕生する。失脚していた源氏は、治承四(1180)年、源頼朝は伊豆で兵を挙げた。二十日ほど遅れて、信州木曾で挙兵したのが源(木曾)義仲である。源平の激突、北陸もその舞台となる。源(木曾)義仲は寿永二(1183)年、大軍をひきいて、北陸道を南下して、上洛しようとした。平家の方は、平維盛・平通盛が大将となり大軍で迎撃する。加賀の武士たちの多くは、林氏・富樫氏・倉光氏などは、源(木曾)義仲に味方する。津幡付近で勢力をもっていた(大根布・黒津船・荒屋・室などを支配下に置いていたとみられる)井家二郎範方も、源(木曾)義仲に味方する。しかし兵力の差は大きすぎて、根上の戦いで戦死。勢いにのった平家は、総大将平維盛が倶利伽羅山に本陣を構える。平通盛の方は、能登に入る。この時平通盛の軍勢は内灘を通過している。『源平盛衰記』によれば、志雄山に向かう三万人の平通盛の軍勢は、室尾(内灘町室)や青崎(宇ノ気町大崎)に布陣したと伝えられている。

 

 

 

荘園制下の内灘

 

内灘町の各地域は、倉月荘と井家荘に分割されていた。向粟崎村だけが倉月荘に属し、そのほかの本根布・大根布・宮坂・黒津船・荒屋・室は井家荘に属していた。

 

 

 

倉月荘

 

『越登賀三州志』所収の「図譜村籍」によれば、近世の倉月荘は石川郡と河北郡にまたがっていた。石川郡では、上安江・下安江・諸江・南新保・割出・三ツ口・三ツ屋・大河端・北間・須崎・西蚊ヶ爪・粟ヶ崎・近岡・大友・大友御供田・直江の十六ヶ村、河北郡では・磯部・沖・田中・高柳・松寺・寺町・東蚊ヶ爪・向粟崎・宮ノ保・大浦・木越・今・千田の十三ヶ村が、更にこれに金沢の安江町・升形・白銀町・英町・塩屋町・清水町・西御坊町・東末寺町・堀川笠市・鍛治町・荒町・厩町・須田町・南六枚町・専光寺前の十五ヶ町が倉月荘を構成していた。

倉月荘は鎌倉時代から摂津(中原)氏が伝領してきた。倉月荘は十四世紀にはすでに、粟ヶ崎・向粟崎村を中心にして、漁業が発展していた。「天龍寺文書」によると、康永二(1343)年頃、大野荘雑掌行盛と、倉月荘地頭摂津右近蔵人能直代円行の間に、海・湖の堺争論があり、貞和二(1346)年、足利直義がこれを裁決している。この文書には、金沢市粟ヶ崎町は青崎という名ででてくる。また青塚とあるのは室村の青塚を指すものであろう。

 

 

 

倉月荘と本願寺

 

蔵月荘の領主である摂津(中原)氏と本願寺との関係はきわめて密接であった。蓮如(1415−1499)の二十三番目の子供で十男の兼俊(実悟)の『実悟記』によると、将軍家上臈の春日局は摂津氏の出で、蓮如の四女で、光兼(実如)のすぐ下の妹の妙秀(宗)を幼少の時から養育したと記されている。倉月荘において真宗は、木越の光徳寺(現在七尾市、本願寺派)を中心に、浅野川・金腐川のデルタ地帯で開けていった。十五世紀にはこのあたりではすでに真宗は流布され、相当な力を有していたようである。文明三(1471)年、蓮如の吉崎開教をきっかけに、本願寺教団は急速に発展、北陸の村々はこぞってその傘下に入る。こうして16世紀に入ると、加越能一円は本願寺の支配下に完全に入ってしまう。

 

 

 

東本願寺歴代法主

 

 初代宗祖御開山親鸞聖人(1173-1262) 弘長二年十一月二十八日九十歳で没

 本願寺第二世如信上人 正安二年一月四日六十四歳で没

 本願寺第三世覚如上人 観應二年一月十九日八十二歳で没

 本願寺第四世善如上人 康應元年二月二十九日五十七歳で没

 本願寺第五世綽如上人 明徳四年四月二十四日四十四歳で没

 本願寺第六世巧如上人 永享十二年十月十四日六五歳で没

 本願寺第七世存如上人 長禄元年六月十八日六二歳で没

 本願寺第八世蓮如上人(1415-1499) 明應八年三月二十五日八五歳で没

 本願寺第九世実如上人 大永五年二月二日六八歳で没

 本願寺第十世証如上人 天文二十三年八月十三日三九歳で没

 本願寺第十一世顕如上人 文禄元年十一月二十四日五十歳で没

 東本願寺第十二世教如上人 慶長十九年十月五日五七歳で没

 東本願寺第十三世宣如上人 万治元年七月二十五日五五歳で没

 東本願寺第十四世琢如上人 寛文十一年四月十四日四二歳で没

 東本願寺第十五世常如上人 元祿七年五月二十二日五十四歳で没

 東本願寺第十六世一如上人 元祿十三年四月十二日五十三歳で没

 東本願寺第十七世真如上人 延享元年十月二日六十三歳で没

 東本願寺第十八世従如上人 宝暦十年七月十一日四十二歳で没

 東本願寺第十九世乗如上人 寛政四年二月二十二日四十九歳で没

 東本願寺第二十世達如上人       慶應元年十一月四日八十六歳で没

 東本願寺第二十一世厳如上人 明治二十七年一月十五日七十八歳で没

 東本願寺第二十二世現如上人 大正十二年二月八日七十二歳で没

 東本願寺第二十三世彰如上人 昭和十八年二月六日六十九歳で没

 東本願寺第二十四世闡如上人 平成二年現在大谷光暢門主

 

 

 

蓮如以前の真宗

 

蓮如以前、とくに河北郡にあった寺院としては、鳥越の弘願寺(津幡町)、木越の光徳寺(七尾市・本願寺派)、太田の受得寺(津幡町・廃絶)がある。それぞれ地域門徒の教化に尽力していたが、これら大坊主分の上にたって指導したのが、蓮如の叔父如乗(宣祐)が開基した二俣の本泉寺であった。如乗の力で本願寺の宗主にになった蓮如は、自分の次男の蓮乗(兼鎮)、七男の蓮悟(兼縁)を二俣に下し、如乗の跡を継がせた。二俣の本泉寺を継いだ蓮悟は、本泉寺の寺基を若松に移すとともに、河北潟の東岸才田村に一坊を開く。これが『大谷一流系図』にいう崎田坊である。蓮悟が崎田坊を開創したのは、他の一家衆寺院(松岡寺・光教寺)と同様に、拡張した本願寺教団の統一を意図したためであり、崎田坊は出先機関の役目を担っていた。河北郡の真宗はこの時点で、本願寺−一家衆−大坊主−道場−門徒という組織を完成し、真宗王国の基礎を作りあげたのである。

 

 

 

一揆

 

文明年間、真宗教団は日をおって勢力を増し、教団を背景にして国人・門徒の土地押領や年貢違乱が多くなる。社会経済の体制として、ながくつづいてきた荘園制が、ここにきて根底から揺すぶられることになる。光徳寺をはじめ大坊主や河北郡一揆が、領主の荘園支配をおびやかし、守護と同等の力を持つようになる。文明十七(1485)年九月二十一日付の『足水家文書』によれば、その年幕府は、一家衆寺院の松岡寺に対して、倉月荘の磯部庶子分と青崎村(粟ヶ崎)を押領している富樫政親をしりぞけ、領主摂津氏の代官に協力するよう下知している。富樫氏と一向一揆は、もはや支配されるものとするものの関係ではなく、力と力の対決という段階に達している。長享元(1487)年十二月、富樫政親は将軍義尚にしたがって、一向一揆の制圧にでる。この年本願寺蓮如は、能登畠山氏の出身の五十歳年下である蓮能尼との間に、女妙祐をもうける。富樫政親は石川郡の高尾城に本拠を置き、能登の畠山義純、越中の畠山政長、越前の朝倉貞景に援軍を依頼する。しかしうまくゆかず孤立無援になった富樫政親は、長享二年六月悲劇的な最後を遂げる。加賀の国は文字どおり百姓の国となる。しかし蓮如の妻蓮能尼の里方畠山氏は、富樫政親に味方したので、蓮如夫妻は苦しんだらしい。

 

 

 

蓮如・実如時代の教団

 

蓮如は文明三(1471)年の吉崎開教以来、本願寺教団統一のため、自分の子供たちを諸国に配し、地方の拠点を作りあげてゆく。

加賀地方には、次男の兼鎮(蓮乗)を二俣の本泉寺に、同じくその後継者に七男の兼縁(蓮悟)。三男の兼祐(蓮綱)をして波佐谷に松岡寺を開創させ、四男の康兼(蓮誓)をして山田に光教寺を開創させた。これを加賀三ヶ寺と称し、一家衆寺院ともいった。

この他、六男の兼誉(蓮淳)は、近江顕証寺、伊勢長島願証寺、河内久宝寺。八男の兼王秀(蓮芸)は摂津の教行寺。九男の兼照(実賢)は近江称徳寺。十男の兼俊(実悟)は加賀清沢の願得寺。十一男の兼性(実順)は河内の西証寺。十二男の兼継(実孝)は大和の本善寺。十三男の兼智(実従)は河内の順興寺。

このような一家衆寺院の下には、在来の大坊主分、末寺道場、国人門徒、門徒農民がつき、縦の重層的な組織を形成していた。この組織にあっては、本願寺の指令はすべて一家衆を通じ、一家衆から大坊主、大坊主から末寺道場、末寺道場から農民へと下達された。実如の時代も、同じように一家衆を通じて、重要な指令が発せられていた。

 

 

 

(豪商)島崎屋徳兵衛

内灘町向粟崎の旧家。屋号「島崎屋」。回船問屋、豪商。島崎屋徳兵衛家は、能美郡粟津郷の島を本貫(本拠地)として、内灘町向粟崎に移住してから富豪となり、宮腰(金石)の銭屋五兵衛、金沢市粟ヶ崎町の木屋藤右衛門とともに、加賀前田藩の御金御用となっていた。また島崎屋徳兵衛、宮腰(金石)の銭屋五兵衛、金沢市粟ヶ崎町の木屋藤右衛門、白屋三郎兵衛を加賀前田藩の四長者ともいったそうだ。

島崎屋徳兵衛は文政八年(1825年)金沢市の兼六園に第十三代加賀藩主前田斉泰マエダ ナリヤス 公のために徽軫(ことじ)灯篭、兜石、山崎山の石塔を寄進した。(ただし徽軫灯篭に関しては、島崎屋と親戚関係にあった木屋藤右衛門家の寄進とする説もある)。幕末の鳥羽伏見の戦い(1868年)の時には、加賀の前田藩は島崎屋徳兵衛に対して二万四千六百両の金子調達を、納戸役八名の署名を末尾に付けて依頼状を送っている。

 

 

 

内灘の寺院

 

平成二(1990)年現在、内灘町には左の七ヶ寺が存在する。

真宗大谷派  蓮徳寺   向粟崎一丁目三五〇番地 藤島美彰 住職

真宗大谷派 円照寺 大根布二丁目百九十番地 高山竜渓 住職

真宗大谷派 源正寺 大根布三丁目百四十番地 北上皆順 住職

真宗大谷派 蓮徳寺 宮坂二丁目四十番地 斎藤専一 住職

真宗大谷派 光明寺 西荒屋ロ八十七番地 北西浄秀 住職

真宗大谷派 明証寺 室イ一番地一 藤田賢信 住職

天台宗 一乗院 向粟崎三丁目百二番地二 能崎弘園 住職

そのほか新興的なものに左記のものがみられる。

ものみの塔 エホバの王国会館 向粟崎三丁目百八十番地

(本部;神奈川県海老名市中新田一二七一)

聖書教会 内灘聖書教会 内灘町緑台一丁目三〇六の三一

カトリック カトリック内灘教会 鶴ヶ丘四丁目一の一二七

日本キリスト教団内灘教会 アカシア二丁目十番地

 

 

 

歴史的資料

 

内灘の真宗大谷派に属する六ヶ寺は、どれも歴史は古く、近世の道場が寺院となったものたちである。

内灘町の仏教資料として比較的古いものは、内灘町向粟崎蓮徳寺に蔵される教如ならびに宣如の請取御書四通である。教如上人は本願寺が東西に分かたれて最初の東本願寺の宗主で、本願寺第十二世にあたり、慶長十九(1614)年十月五日五七歳で没している。宣如上人は教如のあと本願寺第十三世になり、万治元(1658)年七月二十五日五五歳で没している。

東本願寺第十二世教如上人の御書二通のうちの一通は、十一月二十八日付で加州河北郡北方七村十六日講にあてて発給されたもので、他のもう一通は同じ宛名に五月二十三日に発給されたものである。北方七村というのは、向粟崎・本根布・大根布・宮坂・荒屋・室・大崎のことであり、この講組織は名前を変えて今日なお伝承されている。

東本願寺第十三世宣如上人の御書二通もやはり北方七村十六日講にあてた請取御書で、一通は卯月(四月)十八日、もう一通は卯月(四月)三日の日付である。この東本願寺第十三世宣如上人の御書二通に関しては、京都の大谷大学図書館蔵の粟津本『申物帳』の中に、寛永十六(1639)年分に、

 

卯月一日    善福寺

一、御書    加州河北郡北方七村

  卯五月十六日御出 十六日講中

  銀子百目 拾匁

 

とある。したがって向粟崎蓮徳寺所蔵の東本願寺第十三世宣如上人の御書二通はおそらく寛永十六(1639)年に下付されたものであろう。また材木町善福寺はその取り次ぎをしたのであろう。

先の東本願寺第十二世教如上人の御書二通に関しては、京都の大谷大学図書館蔵の粟津本『申物帳』の中には、同じ日付の記録は見当たらないが、元和八(1622)年の分に、

 

  四月十七日

一、御書一通   加州河北郡北方七村

十六日講中

上様へ百匁 私へ十五匁

 

とある。これにより、加州河北郡北方七村十六日講がすでに伝統的な講として存在していることが判明するので、向粟崎蓮徳寺所蔵の東本願寺第十二世教如上人の御書二通も、当然、実際にありえたことを示すものである。

 この加州河北郡北方七村十六日講は、やがて小松の本蓮寺にひきつがれて、規模を縮小してゆく。向粟崎蓮徳寺には「本蓮寺拾六日講中」第二番組の記録が残されている。それによれば、昭和二十二年七月十六日、一番組は四十八円、二番組は三十八円、三番組は三十四円、合計百二十円を拠金している。ちなみに二番組は、喜多由太郎以下、男女合計四十三名で構成されていた。

 

 

 

講組織と檀家制度

 

江戸時代に入ると、内灘以外の地域から、多くの寺院、坊主がこの地に入り込み、それぞれに講を結んで、内灘の信者と交流をもつようになった。それらの講に対して下付された本願寺宗主の消息が、内灘六ヶ寺には多く保存されている。これらの消息は江戸時代における浄土真宗の実態を示す貴重な史料である。

文化四年(1807年)の大野町の伝泉寺の十五日講に関する古文書史料が、向粟崎蓮徳寺に残っているのを初めとし、内灘町向粟崎にはその大野町の伝泉寺を初めとして、誓入寺、金沢の蓮福寺、さらに新しくは内灘町大根布の円照寺、金沢の円休寺、伝泉寺などいくつかの寺院が入りこんで講を結んでいた。各講のメンバーは一人で二つ以上の講の講員になるなどしていた者が多かった。これはもちろん内灘町向粟崎にかぎらず、内灘の各村に共通した現象であった。講の寄り合いは、村人の親睦や娯楽や情報源になるなど、さまざまな機能をはたしていた。

 講坊主と信者の関係が、やがて寺檀制度の中で固定してゆき、今日の檀家制度にと発展してゆくのである。今日他の地域から内灘町に入っている檀那寺は、小松本蓮寺、金沢の智覚寺、材木町善福寺、八田の光徳寺、弘願寺、広済寺、仰西寺などであり、そのほか数軒の檀家を擁する寺院がいくつかある。ただ宮坂村だけは、第二次世界大戦中に、寺檀制度の矛盾、主として経済的矛盾を問題にして、他の地域の寺院から離檀して、自分たちの村のつまり宮坂村の蓮徳寺にそろって結集したのである。小松の本蓮寺の場合も、内灘町向粟崎で結んだ講を、やがて寺檀組織にくみかえていったものと考えられる。こうして内灘町向粟崎に本蓮寺門徒が増加するにともない、向粟崎村道場は、いわゆる縁借り道場的な性格を強くし、さらに申物などに本蓮寺の力を借りることが多くなり、そのため本蓮寺の下道場に転じていったと思われる。

 

 

 

ふたつの「蓮徳寺」

 

第二次世界大戦後、内灘町も生活形態の向上をみて、電話などが普及するにつれ、よく同じ内灘町にある宮坂蓮徳寺と向粟崎蓮徳寺が間違われるような事態が起こるようになった。宮坂蓮徳寺は、『内灘町史』によると、昭和二年に石川県羽咋郡志加浦村字安部屋から宮坂に移転してきたものらしい。したがって、昭和二年以来、同じ内灘町に、同じ宗派の真宗大谷派に属する、同じ寺号の「蓮徳寺」が二ヶ寺存在することになるのである。正確には昭和37年までは内灘は村であった。昭和37年に町政が施行された。

 

 

 

向粟崎蓮徳寺の由緒

 

道場としての時代

向粟崎蓮徳寺所蔵の古文書で、道場名が記載されているもので一番新しいものは、文政七(1824)年十二月十三日の日付で、下間治部卿法印、川那部帯刀から、加州河北郡向粟崎村道場道因にあてたものである。

また内灘町向粟崎2丁目島崎博氏所蔵の、天保十(1839)年十一月吉日調製の「葬式法事留」(冊子)には、道場九郎右衛門と随所に記載がある。したがって1839年現在にはまだ向粟崎蓮徳寺は道場であり、「九郎右衛門道場」と一般に呼ばれていたのではないだろうか。また中山又次郎著の『内灘郷土史』によれば(139頁)、小松の本蓮寺に残る過去帳は、明治初年の火災のためか、天保十五年以後のものしかないが、その中に、

弘化三年午五月二十六日 妙円 道場 九郎右衛門娘

嘉永元年申九月二十一日 浄円 向粟崎道場

とある。つまり弘化三年は1846年。嘉永元年は1848年。

九郎右衛門そのひとに関する史料は、それらふたつのほかにみつかっていない。しかし、一般に道場主は在地有力者がなったケースが多いから、おそらくは向粟崎村の有力者の一人であったろうことは十分に考えられる。

 明治五年の戸籍編成にあたっては、多くの道場は民家になっていった。

 

 

 

 

道場の種類

 

本願寺第三世覚如上人の『改邪鈔』には、親鸞聖人が造像起塔は弥陀の本願でないといって、造寺土木のくわだてを禁じ、ただ「道場をば すこし人屋に差別あらせて、小棟をあげて」つくるよう指示したことを、伝えている。親鸞聖人在世中には、寺は一ヶ寺も存在しなかった。しかし本願寺第三世覚如上人が、大谷本廟を寺院化し、本願寺を名乗ってから、真宗の寺が若干みられるようになった。しかし江戸時代になるまでは、その数はきわめて少なく、真宗教団の単位は諸国の道場であった。江戸時代になって、道場を寺院化する傾向が増えたが、しかしなお道場の数は決定的に多かった。しかもその道場主は、真宗の本義である非僧非俗を地にあらわし、在家の生活をおこないながら信仰生活をおくった。所によってはこれを毛坊主とも称した。次に示すように、道場は、地域によってさまざまな呼称があり、内容にも差異がある。

 

総(惣)道場

総門徒の総意によって建立された独立道場。住職も総門徒の承認によって就任した。

 

立合道場(寄り合い道場)

他門徒たちが寄り合って建立した道場。檀那寺が遠く離れている場合、その門徒がその在所に建てる場合が多かった。

 

表裏立合道場

東西両本願寺門徒が寄り合って建立した道場。

 

兼帯道場

下道場

字の示すように、ある寺の支配下にある道場をいう。

 

毛坊道場

俗人(いわゆる毛坊主)が道場主になっている道場。

 

別当道場

道場主を別当と称する地域ではこれを別当道場と称する。

 

辻本道場

厨子元がなまって辻本になったとみられている。つまり、名号、絵像を納めた厨子を備えた家。

 

内道場

家道場

辻本道場とよく似ている。民家の一部を道場にあてたもの。一般門徒の家にある仏壇よりも大きなものを安置し、村村では長百姓でなければできなかった。

 

講道場

おもに薩摩地方にみられた。寺元、花元、番役寺などさまざまに称される。

 

 

 

 

寺号の認可

『内灘郷土史』には、向粟崎蓮徳寺の寺号は明治三年に認可となっているがこれは誤りである。向粟崎蓮徳寺所蔵の古文書によれば、嘉永四(1851)年にまで遡る。

河北潟は、古来、別名「粟崎湖」とも「蓮湖」ともいった。

加能民俗の会編著の『蓮如さん−門徒が語る蓮如伝承集成』(1988年)には、

 

 ◎蓮徳寺 河北郡内灘町向粟崎ヘ九一

 天明六年五月十日開基宗利が堂宇を創立する。嘉永四年本山より蓮徳寺の号を受け、 以来これを公称した。(293頁)

 

というのと、さらにもうひとつ別に

 

 ◎蓮徳寺 河北郡内灘町粟崎ヘ四一

 貞享元年五月の創立で開基を祐念という。慶応二年類焼の難に罹り、今仮堂を営ん でいる。天保六年四月火災に罹り旧記を失くした。(298頁) 

 

という、ふたつの異なった記述がみられる。しかし宮坂蓮徳寺の件に関しては、同じく298頁に、

 

◎蓮徳寺 河北郡内灘町宮坂ニ四〇

 

とだけしか記載がない。

298頁に記載されている、「◎蓮徳寺 河北郡内灘町粟崎ヘ四一」の項目は、『石川県寺院明細帳』などを参照にした、羽咋郡安部屋にあったころの宮坂蓮徳寺に関する資料を、向粟崎蓮徳寺に関するものと取り違えたものであろう。

 

また293頁の向粟崎蓮徳寺についての、「嘉永四年本山より蓮徳寺の号を受け、以来これを公称した。」との記載に関しては、向粟崎蓮徳寺所蔵の寺号認可に関する古文書(嘉永四年・1851年)と一致するので正しいものである。

しかしながら「天明六年五月十日開基宗利が堂宇を創立する。」という説明に関してはさだかではない。が、平成二年現在の本堂を建立する以前の、昭和三十六年六月三日向粟崎蓮徳寺本堂改築献堂に際しての島崎悦吉氏の言葉の中にも、「信仰の篤い由緒ある古刹でありますが、今日まで長年月の風雪に其腐朽甚だしく改築の必要なることは・・・」とみられるように、老朽化が極めてはなはだしかったので、天明六年に建てられたものであったのかもしれない。また宗利が開基だとは考えがたい。開基はもろもろの材料古文書類などから、室町時代の末期と考えるのが妥当であろう。

 

 

 

向粟崎蓮徳寺所蔵の古文書記録類の一部

『内灘町史』を編纂した元大谷大学学長の北西弘氏は、その著書の中で「このようにまとまった申物史料は、他に類例は少なく、貴重な真宗史料として、たかく評価されてよいであろう。とくに上納目録は、申物価格を具体的に示す史料としてだけでなく、このような御礼銀を拠出する在地の経済事情をうかがう史料として、注目されてよいであろう。」(848頁)と述べている。

 

方便法身尊像一幅

開基仏であったであろうと推定されるが、室町時代末期のものと思われ剥奪がはなはだしい

 

東本願寺第十二世教如上人直筆十字名号一幅

蓮台後補

 

本願寺第十世証如上人版御文一冊(第五帖目)

 

東本願寺第十二世教如上人御書

五月二十三日、東本願寺第十二世教如上人より加州河北郡北方七村十六日講中に発給

 

東本願寺第十二世教如上人御書

十一月二十八日、東本願寺第十二世教如上人より加州河北郡北方七村十六日講中に発給

 

東本願寺第十三世宣如上人御書

四月(卯月)三日、東本願寺第十三世宣如上人より加州河北郡北方七村十六日講中に発給

 

東本願寺第十三世宣如上人御書

四月(卯月)十八日、東本願寺第十三世宣如上人より加州河北郡北方七村十六日講中に発給

 

東本願寺第十五世常如上人御書

暮春(三月)六日、東本願寺第十五世常如上人より加州河北郡北方七村十六日講中に発給

 

東本願寺第十五世常如上人御書

晩秋(九月)十六日、東本願寺第十五世常如上人より加州河北郡北方七村十六日講中に発給

 

東本願寺第十六世一如上人御書

初秋(七月)二十五日、東本願寺第十六世一如上人より加州加賀郡北方七村十六日講中に発給

 

東本願寺第十七世真如上人御書

三月十五日、東本願寺第十七世真如上人より加州河北郡北方七村十六日講中に発給

 

東本願寺第十八世従如上人御書

仲冬(十一月)十六日、東本願寺第十八世従如上人より加州末刹付北方七村十六日講中に発給

 

御書添え状

1807年4月22日

文化四年四月二十二日、粟津出羽介より、加州石川郡大野村伝泉寺向粟崎村十五日講中あて

 

御書添状

1823年5月15日

文政六年五月十五日、下間治部卿法印、川那部帯刀より、本蓮寺下加州河北郡粟ヶ崎村道場本山二十七日講中あて

 

東本願寺第二十世達如上人御書

1860年5月20日

萬延元年五月二十日、本蓮寺下加州河北郡向粟ヶ崎村蓮徳寺本山尼講中に発給

 

御遠忌御書添え状

1861年2月15日

萬延二年二月十五日、下間大蔵卿法眼、上田織部より、本蓮寺下加州河北郡向粟ヶ崎村蓮徳寺御本山尼講中あて

 

東本願寺第二十一世厳如上人(光勝)御書

1875年6月21日

明治八年六月二十一日、加賀国河北郡向粟ヶ崎村誓入寺四日講中に発給

 

東本願寺第二十二世現如上人御書

1902年11月11日

明治三十五年十一月十一日、加賀国河北郡内灘村字向粟ヶ崎蓮福寺十五日講中に発給

 

東本願寺第二十三世彰如上人御書

1914年9月20日

大正三年九月二十日、加賀国河北郡内灘村向粟ヶ崎誓入寺女房講中に発給

 

東本願寺第二十三世彰如上人御書

1925年9月10日

大正十四年九月十日、加賀国河北郡内灘村向粟ヶ崎蓮福寺二十三日講中に発給

 

東本願寺第二十四世闡如上人御書

昭和九年三月二十二日、加賀国河北郡内灘村大字向粟崎、円照寺四日講中に発給

 

河北郡北方七村十六日講に関する一連の記録資料

1772年

明和九年御講当番并打入之帳(横帳一冊)

1775年

安永四年御講当番并打入之帳(横帳一冊)

1776年

安永五年御講当番并打入之帳(横帳一冊)

1780年

安永九年十六日御講当番并打入之帳(横帳一冊)

1781年

安永十年十六日御講拾文銭打入之帳(横帳一冊)

1781年

安永十年十六日御講当番并打入之帳(横帳一冊)

1782年

天明二年十六日御講当番并打入之帳(横帳一冊)

1784年

天明四年十六日御講当番并打入之牒(横帳一冊)

1784年

天明四年十六日御講拾文銭打入之帳(横帳一冊)

1787年

天明七年十六日御講拾文銭打入之帳(横帳一冊)

1789年

天明九年十六日御講拾文銭打入之帳(横帳一冊)

1791年

寛政三年十六日御講打入帳(横帳一冊)

1818年

文化十五年十六日御講当番并打入之帳(横帳一冊)

1842年

天保十三年十六日御講当番并打入帳(横帳一冊)

巳正月改十六日御講打入帳(横帳一冊)

申正月改十六日御講打入帳(横帳一冊)

 

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